ご存知の方が多いと思いますが、現在野党ハンナラ党の党総裁を務める朴槿恵氏は、陸夫人との間にできた長女です。朴正熙には未だに国民的人気がある証拠でしょうね。しかし、犠牲もあった、ここ2,3年の朴正熙批判は、ようやくそこに光が当てられるようになっ…
わが小泉首相など足元にも及ばぬほどのやりたい放題ですが、それまでの退廃と沈滞の国を小国ながら強い国にしたいとの朴正熙の強い思いが、軍人に有り勝ちな硬直化した政治文化の中で暴走したとみてよさそうです。 2年後の1974年8月には大統領の命を狙った狙…
維新憲法といわれる新しい憲法は、 ●統一主体国民会議を新設、この会議による間接選挙で大統領を選出する ●大統領の任期の延長、重任の規制条項なし という大統領権限を無制限に近く強化して、永久独裁体制を狙ったものでした。 それまでの憲法では、李承晩…
33年前の今日、1972年10月17日、朴正熙大統領は、何回目かの非常戒厳令を布告し特別宣言を行ないました。「10月維新」といわれる措置を講じます。それは、南北対話などの新局面に対応するために一大維新的な改革が必要として、国会を解散して、新憲法を制定…
10月1日の朝日新聞に“ソウル都心、「せせらぎ」復活”の記事を発見して嬉しくなりました。このサイトでも紹介しましたが、8月にソウルを訪問した時には、まだ工事中で、これで果たして10月に水が流れるのだろうか、と気になっていたのです。 ソウル中心部の高…
朴大統領の独裁ぶりが酷くなって、反政府活動が活発化しており、そのことを憂慮したキム部長が犯行に及んだとされています。また、同じ治安機関である大統領警護室との確執も原因と言われています。というのは、この時同席していた警護室長のチャ・チチョル…
今から26年前に遡ります。この年の10月26日の夜、韓国の国民、否世界を驚かせた事件が起こりました。“漢江の奇跡”と言われた未曾有の経済成長を実現し、韓国の近代化を進めた大統領、朴正熙が宴会の席で射殺されたのです。それも同じ慶尚北道出身で、側近中…
10月になりました。このサイトがスタートしたのは昨年の9月、秋夕(チュソク)の頃でしたから、早や1年余りになります。サボリ勝ちながら、続けられたのはみなさまのお陰と改めて感謝しております。 5月から韓国での仕事が始まってなかなか時間が取りにくか…
8月15日、光復節のソウルについて報告します。 午前中はTV情報、午後は光化門前広場を見学しました。 ■午前 7時のニュース 朝から解放60年記念特集の番組が放送されました。7時のニュースでソウルのあちこちで行われる記念行事が案内されました。光化門前…
今回の訪問ではソウルの変身振りが印象的でしたので、今日はそのことをレポートします。【市庁舎前のロータリー】 私はソウルでは市庁舎前のホテルを常宿にしています。ホテルの窓から見える市庁舎前のロータリー状の5車線の広い道路を車がビュンビュン走っ…
長い間ご無沙汰してしまいました。仕事が忙しい上に韓国現代史の勉強が追いつかなくてついつい書き込めずにいました。ごめんなさい。今回、仕事の都合で8月12日から16日までソウルの訪問が実現し、60年記念の光復節を肌で感じる機会に恵まれました。それを中…
朴正熙批判が盛んに行われているようです。確かに「奇跡が行われるには陰の部分がある」(スエンさんのおっしゃる通り)。しかし、私服を肥やすことなく、国のために働いた偉い指導者であった、と今、私は考えています。
というのがあるそうです。「みんなで早起き、みんなで働こう、それはいいことだよ」というような面白い歌詞で、これも朴大統領が作ったものだそうです。率先して歌って見せたそうです。
この運動には、朴大統領の「国を豊かにして、みんなが飢えないような社会を創りたい」という情熱を感じます。 朴大統領自身、貧しい農家の息子として生まれながら、努力して学校を卒業、「師範学校」を出て教師をやり、さらに成績のよいものには無料で入学さ…
植村氏の批評によると、農民を豊かにする上では「さほどの効果はなかった」。為政者側が、農民の意識を変えようという意図で行った「精神運動」に過ぎない、と。 こうした一面もあり得るだろう、と私も推測します。
これは私の推測ですが、こうした運動の場合、鍵は「指導者」にあると思われます。実力もあり、リーダーシップもある指導者が本当に村人たちのことを考えながら実行していけば、うまくいくし村人も喜んで参加するでしょう。 しかし、そうでない場合、或いは労…
を選んで「セマウル指導者」にしました。この指導者が中心になって、例えば村人に道路作りをさせたり、それまでは井戸を使っていたところへ、水道の設備を作らせたりしました。 セメントや水道管などの費用は国が出し、労働力は村人が提供するというやり方で…
農閑期になると集会所などに集まってバクチをやる習慣があって、バクチに負けて農地を獲られるとか、いろいろな騒ぎがあったそうです。 朴大統領は、こうした農民たちに自分たちで自分の村を近代化する、という意識を持たせようと考えたということです。
ひさごんさんから、セマウル運動について質問があったので、ソウルの友人に電話で聞いてみました。本では見つけられなくて。
についても、植村氏は批判的です。 「農村の所得増加や負債の解消などには、さほどの効果は無かったとされる。この運動は一方で、朴政権の維新体制を農村で支えるという精神運動の側面もあった。」と。
切手のコバウおじさんをご覧ください。朴政権下の70年代のコバウはやせています。何を蹴とばしているのでしょうか。独裁政権の下で、政治的な自由、言論の自由が厳しく制限された時代の人々の心を象徴しているようだ、とこの本の翻案者である植村隆(朝日新…
朴大統領の施策として有名なのが、「セマウル運動」です。セマウルとは韓国語で「新しい村」という意味ですが、農民の意識改革によって農村を近代化しようという運動で、1970年に提唱されました。「勤勉、自助、協同」をスローガンとして、生活水準を向上さ…
日本からの経済援助に加えて、1965年、米国の要請を受けてベトナムへの派兵を決め、見返りとして米国から巨額の軍事経済援助を引き出します。しかし、73年までの8年間にのべ31万人が参戦し、5千人以上が戦死したとのことです。韓国の若者にとって、朝鮮戦…
これは、今私が参考にしている「マンガ:韓国現代史−コバウおじさんの50年」の主人公、コバウおじさんの50年間を切手にしたものです。 この本は庶民の代表であるコバウおじさんの現代史としてとてもわかりやすいのでお勧めです。コバウおじさんというのは、…
10日間もごぶさたしてしまってごめんなさい。
こうした貧しさを解決するために日本からの資金導入や経済援助を意図して、日本との国交回復を急いだため野党や学生が屈辱外交として反対、大規模な朴政権退陣デモが行われました。政府は非常戒厳令を布告してデモや反対集会を禁止、反対派を弾圧しました。 …
当時は、農作物の凶作、物価上昇などで人々の生活は非常に貧しかったようです。(62年の国民一人当たりのGNPは87ドル) 農業以外の産業はなくアメリカからの援助に頼っていました。 「ぼくたちは食べるものもなくて、ごはんもたけません。」(1964年のベ…
軍事革命(*)以後軍部は体制を整備し、どんどん実権を握っていきます。 政権維持のための最大機関として中央情報部(KCIA)を設置、朴の側近(金鐘泌)が初代部長に就任してさまざまな工作を担います。 *1961年5.16 当時国防軍少将であった朴正熙を中心と…
その政治家がなぜ側近の銃に倒れたのか。さらにその5年前には最愛の夫人が在日韓国人に銃殺されています。そして今、韓国では朴大統領の悪をあばくドキュメントが次々に作られているそうです。気になることだらけ、少しずつ調べていきましょう。
朴大統領についてまず思い浮かぶことは、「食べられない韓国」を「食べ過ぎる韓国」に変えたこと、国民を貧しさから救った政治家、ということです。下のニューヨークタイムズ記事は、大統領が射殺される5日前に書かれたものです。 『韓国はいかなる発展途上…