植民地時代-日韓の近代No.19

 ちょっと忙しくて11日もお休みしてしまいました。今日からまたポツリポツリと続けます。
 前回までは友人の父上が体験したことを紹介しました。これからは友人自身が体験したことです。友人は1930年に生まれ、1938年に小学校に入学します。
          

              ◆小学校時代の様子◆

●日本語について
 家では朝鮮語が常用語、学校では日本語が常用でした。学校で朝鮮語を話すのを見つかると1時間廊下に立たされたり、日本人の先生に殴られたりしました。2年生の時までは朝鮮語読本という教科書がありましたが、4年生から急になくなりました。
 上級学年に進むと児童お互いが朝鮮語の見張り役になりました。誰かが朝鮮語を使うと、どこでいつ何という言葉を使ったかを担任の先生に申し出ます。担任の先生はこれを確認してマイナス点をつけます。単語一つ使う毎に1点ずつマイナスします。
 これは生徒同士の仲を非常に悪化させ、級友の間でもなぐりあいが起きました。5年生の時には、「朝鮮語の問いにも答えは日本語で」という標語が貼られました。


@@@ 生まれた時から慣れ親しんだ言葉を取り上げて、使うと罰するなんて、むごいことをしたものです。親は朝鮮語しか知らないのに、学校で親と朝鮮語で話しても罰したそうです。なんと非人間的なやりかたか、ぞっとします。(極楽鳥、別名hide)


皇民化教育
 神社参拝、宮城遥拝、皇国臣民の誓詞などをやりました。当時はそれがなんであるかわからずに、先生に言われる通りにやりました。疑問もありませんでした。
 5年生の時、校庭に奉安殿という建物が建てられてフォード車にのった神様を生徒全員で迎えました。続いて奉安式が行われました。それからは毎朝校門を入る時に奉安殿に最敬礼をするよう厳しく言われました。

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(注)「皇国臣民の誓詞」というのは、1937年に制定されたもので、児童用と大人用があった。下は児童用です。
   一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。
   二、私共ハ心ヲ合セテ、天皇陛下に忠義を尽シマス。
   三、私共ハ忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民トナリマス。
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@@@ 皇国臣民、つまり天皇陛下の臣下として恥ずかしくない人になるための教育は、この時期日本ではもちろん徹底的に行われたのですが、全く同じことを朝鮮の人々にもやらせたということがわかります。「フォード車に乗った神様」というのは、恐らく天皇陛下の写真(御真影という)でしょう。(hide)
 
●差別
 1938年頃から食糧の配給制度が実施されました。初期は朝鮮人も日本人も同じように、世帯ごとに5日分ずつ米が配給されました。翌年からは、創氏改名をしていない者は食糧の配給対象からのぞきました。
 米が不足してくると、朝鮮人には雑穀(麦、粟など)を含めて配給し、日本人には米だけを、量も多く配給したと父から聞きました。さらに1942年以後、食糧が不足してくると、満州産の大豆油粕を配給しました。このころから1945年の敗戦まで朝鮮人の食糧難は極限状態でした。
 しかし、日本人は豊かでした。1942年小学校4年の時、日本人学校の運動会を見物したことがあります。家族の弁当は立派だったし、教師児童全員が真っ白な帽子をかぶり、白い運動服を着、白い運動靴と靴下を履いていました。どうしてこんなに高級なものを使えるのかと不思議に思ったという記憶があります。


@@@ 「飢え」の原因が日本人が米を取ってしまうから、ということからの恨みは根強く残っていると思われます。当然の恨みでしょう。(hide)