植民地時代−日韓の近代No.17

        ◆僻地の普通学校(小学校)へ赴任◆

                     *文中の父とは、私の韓国人友人の父上です。


●「ただ乗り」
 1928年、23歳で師範学校を卒業した父は、半島の東海岸に近い僻地の普通学校(小学校)に赴任しました。江原道の湖山里というところです。
 こうした僻地にまで小学校を創るというのは日本の植民地政策の一環で、「一面一校計画」と呼ばれるものです。1936年に完成しますが、1928年当時でもすでに6学級の普通学校が各郡に5校くらいはあったそうです。
 [朝鮮の行政組織は、道⇒郡または市⇒面または区⇒里または洞(町または村)]
 また、教師の俸給は月額45円、赴任旅費100円と言う破格の高給でした。
 
 非常に急進的で徹底した開化政策であったわけで、朝鮮はこれに「ただ乗り」したというのが父の口癖であったそうです。


●植民地教育の普及に努める
 父は日本に学ぶところが多いという考えで、非常なる親日家でした。日本の歴史や農法などを高く評価し、熱心に植民地教育を遂行しました。「改良稲作農法」「改良育蚕業」「果樹苗木(接木)法」などの講習会を開いて大人気を得ました。

 1933年には、梧底里という虎の出る?山奥に簡易学校を設立するために移住。これももちろん植民地教育普及のためです。
 山間奥地の人々は日本の学問(倭学問とか新学問とか言った)に対する拒否意識が強く、漢学(中国古典)、儒教的伝統的習慣、在来式農法に勝るものはないと確信していました。従って生徒集めに苦労。家々をまわって説得しました。やっと21名集めて、紙工場の一部で仮スタートし、翌年本校舎を竣工しました。

 父は学校でどんな教育をしたか?次回に続きます。