植民地時代−日韓の近代No.16

           ◆日本設立の師範学校に学んだ父◆

                         *父とは、私の韓国人友人の父上です。


 日本の植民地になっていた時代、朝鮮の人々はどういう暮らしをしていたのでしょうか。朝鮮式に言えば日帝支配時代です。
 数年前に、私の30年来の友人に記憶に残っていることをレポートに書いてもらったことがあります。そのレポートを中心にして当時の様子を見てみることにしましょう。友人は親日家で、日本語も自由に使えます。
 親日ぶりが余りに激しいので家族からは冷たくされることもあるということです。この世代間の確執は、目に見えない韓国の悲劇だと思われます。この日記の最初の頃で取り上げた「親日派糾明」の動きとも関連があると思いますがかなり深刻です。いつかこのことも考えてみたいと思っています。
 

●父親の体験から
 私の友人は1930年生まれですので、植民地時代の最後に小学校時代を過ごしたことになります。皇民化教育を受けた子供です。友人の父親は1905年生まれで、小学校の教師としてまさに皇民化教育を進めた人です。
 そこで、レポートは父親の体験から始まります。

(注)以下の紹介は、原文を元に私なりの言葉で書き換えたものです。解説的なものを交えて紹介しますが、わかりにくいところがあれば遠慮なく質問してください。


●日本が創った師範学校
 父は1921年、16才で師範学校に入学します。
 師範学校は、日本が植民地政策として朝鮮全土に13校設立し、各地の秀才を選んで入学させました。家柄を問わず成績がよく、勉強意欲のある青年であれば誰でも入学させたので、地方の秀才たちがまるで掃除機に吸い込まれるように集まったそうです。
 師範学校の学生には、授業料、制服・文具など、寄宿舎での生活費、さらに補助費として20円が支給されました。その頃祖父の全財産が40円だったそうですから、20円というのはかなりな額です。これは、働き手が出かけた後の家に送られたものです。
 こういうわけで、師範学校は全国の貧乏な青年の憧れの的になりました。


●農村は貧乏だった
 当時の農村は貧乏だったので、友人の祖父は行商をしながら息子を学校に通わせていたそうです。祖父は学問が重要だとの考えで無理をしても息子に学問させていたわけで、日本の施策は非常に有難いものだったのです。
 また、息子である父も学問好きで、新しい学問が学べることを非常に喜んで師範学校に入学しました。


⇒レポートはまだまだ続きます。しばらくおつきあいください。