日韓の現代11 朴大統領射殺事件

10月になりました。このサイトがスタートしたのは昨年の9月、秋夕(チュソク)の頃でしたから、早や1年余りになります。サボリ勝ちながら、続けられたのはみなさまのお陰と改めて感謝しております。
5月から韓国での仕事が始まってなかなか時間が取りにくかったのですが、ようやく一段落しそうなので、これからは書き込みに精を出すつもりです。これまで同様のお付き合いをどうぞよろしくお願いします。

ソウルレポート③ 8月15日:光復60年 新しい始まり

 8月15日、光復節のソウルについて報告します。
 午前中はTV情報、午後は光化門前広場を見学しました。
■午前

  • 7時のニュース 

朝から解放60年記念特集の番組が放送されました。7時のニュースでソウルのあちこちで行われる記念行事が案内されました。光化門前では、大統領以下政府要人が出席して大祝典が行われること、市庁前と南大門前の広場では記念音楽会が開かれる。そのために交通規制があるということです。
 正午には普信閣というところにある鐘を撞くそうです。この鐘は昔、都が城壁で囲まれ、四つの大門と小門から出入りしていたころに、開門と閉門の時刻を知らせる鐘だったのですが、現在は新年を迎える時と特別の行事の時に撞かれます。
 ところでこの鐘は1919年に行われた日本からの独立運動の際、独立宣言書に署名した革命家の数にちなんで必ず33回撞かれます。

  • 「画像対面」(9時〜)

 続いてTVでは、南北の離散家族が相互にテレビを使って逢うという「画像対面」の様子が中継されました。釜山、ソウル、テジョンの3箇所に「対面場所」が設けられて、家族がそこに集まっています。北側の家族がテレビに映ると、互いに涙まじりで声をかけあったり、立ち上がって手を振ったりしています。多くが80歳以上の高齢で、車いすの老母もいます。

  • 光化門前の大祝典(10時〜)

 間もなく、各地からの現地中継が始まりました。ドクト(竹島)、マラド、あと2,3箇所まわって、光化門前の様子を紹介しています。広場にもう多勢あつまっていて、民族舞踊などが行われています。時々コメンテーターが出てきてしゃべっています。光化門前の大通りが大祝典の会場になっています。
 10時からここで式典が始まり、その様子が中継されました。大統領が30分ほど熱のこもった演説をしましたが、残念ながらほとんど聴き取れません。時々拍手が沸きあがっているところを見ると感動的な発言がされたのでしょう。sahi newsによると日本への言及はなかったということです。
 大統領の表情はとても真剣でした。

  • 「60年記念、感動の瞬間60選」(11時〜)

 続いては1時間半のドキュメント番組です。日本からの解放に始まって、オリンピック、ワールドカップなど、日本関係では、新大久保駅で日本人を助けようとして亡くなった李青年の紹介がありました。教科書問題やドクト問題は出ませんでした。感動の瞬間ではありませんからね。
午後
 12時過ぎにスエンさんと一緒に食事に外出し、その足で景福宮から光化門前まで行ってみました。式典に使われた舞台や招待者用の大量の椅子などの片付けの最中でした。そらには大きな風船、式典の横断幕や太極旗などが夏の空の下ではためいていました。真昼の太陽に照り付けられて汗だくで歩きました。
 
 世宗会館前の広場では、記念コンサートが行われ、近くの路上で大きな半島地図に色とりどりの手形を押して名前を書くというイベントをやっていました。60年記念のテーマである「民族統一」への願いを示すイベントです。統一を祈って、二人共手に塗料を塗ってもらって半島地図に押し付けてきました。署名もしました。
 
 上の写真は、テントの中の歴史を紹介した展示です。これは明成皇后(閔妃)ですが、歴史に残る人々がたくさん紹介されていました。
 「新しい始まり−統合の歴史が開く」という標語があり今回の記念行事は南北統一が中心テーマになっていたと思われます。この問題解決の切実さと比べれば、韓国にとって日本とごたごたしている暇はない、ということではないかと思いました。韓国の抱える困難を改めて認識させられた思いでした。

ソウルレポート② 変身するソウル

 今回の訪問ではソウルの変身振りが印象的でしたので、今日はそのことをレポートします。

【市庁舎前のロータリー】
 私はソウルでは市庁舎前のホテルを常宿にしています。ホテルの窓から見える市庁舎前のロータリー状の5車線の広い道路を車がビュンビュン走っていく様子は、いかにも近代化されたソウルを示しているようでわくわくする眺めです。

 これは朝早く撮ったので車は見えませんね。市庁舎は日本が植民地時代に建てて使っていたもので、灰色の重厚な造りです。それが近代的な高層建築に囲まれてどっしり建っています。歴史を感じさせる風景でもあるわけです。
 ところで、このロータリーには歩行者用の信号は皆無でした。道路を渡るのはすべて地下道です。地下は一大ショッピング街になっていて、入ったら最後方向もよくわかりません。地上に出てみると目的地とは反対側だったり。私も何度も迷いました。つまり歩行者にとってはとても不便な一帯だったのです。
 それが、今は様変わりです。道路には歩行者用の横断歩道が造られ、スピードを誇っていた車は信号でストップです。歩行者はその前をゆっくり歩けます。車中心のロータリーから歩行者も共存できるロータリーに変身したのです。

【清渓川(チョンゲチョン)】
 東京と同じように、ソウルの中心部には、2階建ての高速道路が走っていました。ソウルも走る車が多く、東京以上の渋滞も屡々ですから、高速道路は不可欠です。高速道路の一部は清渓川という川を埋めて造りました。

  

 写真がその川ですが、現在復活のための工事が行われているのです。気がつくと、ソウルの中心部から高速道路は消えて遠くの山が見えるようになっていました。当然そのことで被害を受ける人々も多く、5月に訪問した時は、市庁舎前でデモが行われていました。「生活の場を返せ」というようなプラカードを立てて、2,30人の中年男女が大声でアッピールしていました。
 しかし、今回はそうしたデモは一切なく、多くの人はこの復活を歓迎しているようです。一般市民にとっても、私たちのような訪問者にとっても、明るく歩きやすい街は心地よいものです。
 今年の10月1日にはこの川に水が流れるそうです。

 友人のスエンさんによると、いろいろな面で暮らしやすくなっているとのことです。経済中心から暮らし優先へ、ソウルは大きく方向転換をしたようです。ここにも Korean Power を感じさせられました。 

ソウルレポート① 8月12日、13日

長い間ご無沙汰してしまいました。仕事が忙しい上に韓国現代史の勉強が追いつかなくてついつい書き込めずにいました。ごめんなさい。

今回、仕事の都合で8月12日から16日までソウルの訪問が実現し、60年記念の光復節を肌で感じる機会に恵まれました。それを中心に、最近のソウルの状況をレポートしたいと思います。2,3回に分けてアップしますので読んでください。

【8月12日】
11日から12日にかけて釜山で仕事があり、それを済ませて12日夕方にソウルに、初めて鉄道のソウル駅から入りました。釜山から高速鉄道で2時間40分です。ソウル駅はガラス張りの近代的駅舎で、構造はパリ駅に似ていますが、とても解放的で明るい雰囲気の駅です。14、15の連休を控えているせいか、多くの人で賑わっていました。

きょろきょろしながら歩いていると、署名を求められました。よく見ると「ドクト本部」とあり、ドクトは韓国のものであることを主張する署名運動らしいのです。いきなりのことでびっくりしました。日本人と知って呼びかけたのか、それはよくわかりません。

【8月13日】
13日は、南大門、市庁前広場、光化門前などを見てあるきました。15日の光復節に向けて仮設舞台が作られ、テントも沢山並んでいました。

光化門前では、光復60年の式典のための準備が行われています。両方向で10車線の広い道路が交通止めになっていました。

ソウル市庁舎前の広場はワールドカップで賑わった場所で、何かというとイベントの行われる場所です。今日は市庁舎の建物そのものが、いつもと様子が違います。

近づいてみると…、えっ?全部、太極旗だあ〜。

案内役のスエンさんによると、韓国人はワールドカップ以来太極旗が大好きになったということですが、植民地支配からの解放、光復の喜びが表現されているように思いました。広場には子供たちが遊べる噴水などあって家族連れで大賑わいでした。

夜7時ごろまた通過してみると、間もなく前前夜祭コンサ−トが開かれるそうで、昼にも増して人が多く、芝生や道路に座り込んだりしてコンサートの始まりを待っていました。

続きはまた明日。

今韓国では、

朴正熙批判が盛んに行われているようです。確かに「奇跡が行われるには陰の部分がある」(スエンさんのおっしゃる通り)。しかし、私服を肥やすことなく、国のために働いた偉い指導者であった、と今、私は考えています。











 
 

セマウルの歌

というのがあるそうです。「みんなで早起き、みんなで働こう、それはいいことだよ」というような面白い歌詞で、これも朴大統領が作ったものだそうです。率先して歌って見せたそうです。

それでも

この運動には、朴大統領の「国を豊かにして、みんなが飢えないような社会を創りたい」という情熱を感じます。
朴大統領自身、貧しい農家の息子として生まれながら、努力して学校を卒業、「師範学校」を出て教師をやり、さらに成績のよいものには無料で入学させるという満州の陸士学校を首席か2番目かで卒業して、軍人になったという人です。
大統領の生家の写真を本で見たことがありますが、今にも倒れそうな小さいあばら家でした。恐らく自身、貧しさを身に沁みて生きたと思います。